延喜の観音さま
- 文化、信仰のよりどころ 延喜の観音さんになごり
今治の市街地から196号線を西に車で分。「延喜の観音さん」で知られる乗禅寺の建つ延喜地区があります。
平安時代の延喜年間(醍醐天皇時代)、乃万群「小谷村」から今の延喜に変更されました。
今から一千百年も前のことです。
ある日、病床の天皇の夢枕にこの寺の本尊の観音様が現れた、と言う。
さっそく勅使が下され、乗禅寺は祈願寺として隆盛を極めました。
この時の後醍醐天里からの祈祷申込書や足利尊氏の祈祷申込指令所も寺には原形のまま保存されている。
後醱醐天皇に由来するこの寺は、周辺住民にとって信仰の対象としてだけでなく生活、文化の拠点として発展したことが、裏山の宝きよう印塔などからもうかがえます。
この石塔群は鎌倉末期の石造物とされ、宝きよう印塔五基、五輪塔四基、宝塔二基がー堂に集められて保存されています。
これらは、重要文化財に指定されており、中には南北朗年号の銘文が刻まれているものもあります。乗禅寺の起源の古さとともに石造美術学上重要視されてます。
この地域の伝統と文化は人材をも育てています。
八木忠左衛門という義人もその一人。
江戸時代、元禄の少し前(貞亨3年・1686年)。代官の年貢の取り立ては過酷を極めました。
延喜村住民の生活はどん底で飢える者もありました。その上に害虫による凶作がたたみかけました。
忠左衛門はひとり直訴を決心します。が、松山藩はそれを許さず長男の小太郎とともに打ち首に。
この時、忠左衛門は「百姓を頼む」と最後の言葉を残して刑場の露と消えました。最後まで農民への思いやりを忘れぬ彼の徳は、いつまでも語り継がれ、今も延喜の子供相撲の行事として続いています。
歴史の教訓は、今治地方にも数多く残っています。
時代の躍動の中で、ともすれば人の心は社会の波に飲まれそうになるかも知れません。
乗禅寺では、先人速の残した伝統文化や教訓を「新時代の羅針盤」として紹介できれば・・・・、と思っております。